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夢を暖めてきた人、夢実現のきっかけを待っていた人、自分の直感を信じた人・・・
まるで必然で有るかのように、七通りの想いと夢を抱いた、七人のオーナーたちが集まってきてくれたことによって、ビルはやっと再生を始めたのです。
オーナーたちの人生、想い、こだわりが反映され始めた店は、人に伝わり、人の流れはストリートを作り、やがて、街を創り始める。そんなわたしたちの夢を実現させてくれるかのように、ビルはテナントのエネルギーに導かれ、大きな一歩を記したのです。
ビルの再生はカタチだけではなく、ビルの個性を甦らせ、ビルに新しい価値を創ること、ここを必要とするテナントさんたちが入ってこそ初めてビルは再生するのです。
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東京では、そば文化が発達し、そばを食べる前に酒を飲みながら、出し巻きをツマミとして楽しみながら、最後にそばを食べて帰るという、そば好きが多い。そんな大分にはない店を創りたかったんです。浸透するのは、思ったより時間がかかりそうです。だけど、じわじわと、ゆっくり馴染んでいくんだと思います。そば好きには、うるさい人が多い。箸袋に感想をぎっしり書き込んで行く人もいるほど(笑)。だけど、こういう人がいるのはありがたいです。もっと‘そばにうるさい人’が増えていけば、そば文化が高まると思いますよ。
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父の時代はスーパーで売られていた昔ながらのお豆腐屋さん。父亡き後、姉が会社を引き継いだとき、これからは変わっていかなくちゃと。
以前、豊前市の道の駅でわたしが担当していた豆腐の食事処は、質よりもスピードの店。その頃から、お豆腐はもっとゆっくり味わってもらいたいのに…という欲求が湧いていました。イメージはなぜかカフェ。一年経過してようやく店が町に馴染みだしたのか、だんだんお客さんが足を運んでくれるようになりました。もっともっとお豆腐に価値を付けて行きたいんですよね。
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32歳までに店を開こう!なぜかそう決めちゃいましてね。10年内には3軒。これが僕の10ケ年計画でして(笑)。大人の隠れ家みたいなところ?そんな店にしたかったんです。僕は、この店を大分の情報発信地にしたいんです。もちろん、基本は美味しい料理を食べるところ。プラスここに来れば、大分のさまざまなオイシーところに出会えるゾ!…みたいな。コックは黙々と厨房でフライパンを握って…みたいな概念を打ち破りたいんですよ。この店から、料理を媒介にして、僕の夢は始まるんですよ。
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30歳くらいかな、ここに店を持ったのは。当時の都町はガランとしてたよ。それから都町もどんどん潤って来たなあ。競争も激しくなってくる。うちはどうにか、こうにかやって来たな。息子が帰って来て、和食なんかを出してくれるようになってね。それで店が老朽化して来たなあ、と思った頃、新しくした隣のビルへの移転話が来たんだ。そんなふうに時代の変化の流れに沿って来たって感じだね。一度来たお客さんには、もう一回来てほしいって気持ちで寿司を握っている。それだけは昔、店を開いたときからずっと変わらないね。
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自分は映画好きなので、空間を映画風にして、非日常的な場を提供したかったんです。この店は、ちょっとデビッド・リンチのツインピークスっぽくしてますけど、自分だったら、こういう場で飲みたいというイメージで作ったんです。ここは大人が遊べる場所。若い人でも、ちょっと背伸びして、カッコ付けて来れる場があってもいい。映画を見ていると、あの飲み方はカッコいいとか、タバコの吸い方がいいとか、あこがれがあるじゃないですか。バーは、そんな場であってほしいんです。
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サッカー、野球、格闘技とかスポーツが好きなんですけど、くつろいでのんびり酒を飲みながらみんなであーだこーだ言いながら観戦できたら…そんな店があればいいなって。自分で作っちゃったんですけどね(笑)初めはバイトで貯めた金が尽きるまで好きなことやろうかなって、そんな軽い気持ちだった。大分県でいちばん最初にスポーツバーを出したかったって、そういう意地もありましたけどね。オープンして一年経ちましたけど、おかげさまで、いろんなお客さんが来てくれましたよ。そんなに人脈がある方じゃなかったんだけど、やっぱスポーツの魅力かなあ。
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高校の頃からずっと、バーとか、でバイトしていました。だから、22歳でカフェバーを開くという考えは自分にとって自然でした。古いビルを新しい形に再生して提供するっていうコンセプトが、自分の発想と同じだったんです。角打ちスタイルが、それ。以前、バイトしていた頃の常連さんから聞いた話で、昔は角打ちというのがあって一枚の板の前に立って、そこで酒を飲みながら仲良くなり、世界が広がったって。ああ、それってカッコいいな。もし、カフェバーを開くとき、この昔のスタイルを今に持って来ようって。
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